アソシエーションとマネジメント ―経営学再考―
3.11の震災以降、私たちは行き詰まった社会のなかで、資本、国家、企業中心史観に覆い尽くされた見方に異議を唱え、新たな「つながり」を模索している。
本書は、個人と集団と社会が織りなすアソシエーション様式の視点から、ルソー、マルクス、デューイ、フォレット、ハーバーマス、ドラッカーなど、広く社会思想家の文献を渉猟し、この「つながり」の歴史性を浮き彫りにする。
われわれの時代の連帯と実践を提起する新しい経営学原論。
A5判(148×210ミリ)
296頁
定価 (本体3000円+税)
ISBN 978-4-904380-21-5 C3034
2013年3月18日発行
著 者
馬頭 忠治
1952年大阪に生まれる。1981年立命館大学大学院経営学研究科中退。現在、鹿児島国際大学教授を勤める。専門は経営組織論、企業論、NPO・社会的企業論。
主な著書に『NPOと社会的企業の経営学―新たな公共デザインと社会的創造―』(編著、ミネルヴァ書房、2009年)、論文「新しい資本主義の現実と社会イノベーション」(『新しい資本主義と企業経営』に収録)日本経営学会編、千倉書房、2013年ほか。
はしがき(本文より)
(略)
時の経過とともに顧みられなくなった事実こそが、ある意味、現在を対照し、歴史の変化とその意味を再審するならば、経営学において、その最も顕著な事例は、ボランタリー・アソシエーションの歴史となろう。あらゆる国であらゆる時代において、実に多様なアソシエーションの団体と思想が生成したが、経営学は、そのなかの代表的制度の一つにすぎない企業、とりわけ株式会社を主要な研究対象にする学問となった。だが、ターナーから学べるように、社会を秩序づけ制度化する法律や政治、または経済の力、さらには近代合理性の思想などによって勢いづけられ定着した制度としての企業だけを考察することでは、たとえ、それを批判的に究明しても、到底、「自分自身」を理解することにはならない。
本書は、ターナーの複眼的な歴史観に学んで、経営学の批判的研究を発展させようとするものである。また、経営学が、企業中心史観、さらには通説的な理解である企業の二重性論から自由になるためにも、まず、人間のアソシエーションとは何かを明らかにすることから始めたい。その場合、アソシエーションとは、人間が集合する意思ある団体で、協同して活動する団体を指し示すとともに、この団体が自由な社会の関係性を自発的に創出していく自発的な結社でもある、とさしあたり理解し、叙述していきたい。
しかも、アソシエーションは、そのときどきの歴史的な意味と形態を持つことは指摘するまでもないが、その特質を把捉するために、本書は、一般的な労働様式や生産様式ではなく、個人と集団と社会が織りなす結合様式を解明する。この結合様式は、人間の意識的な集合である団体や組織が、個人や国家という近代的条件のなかで、どのように生成し定着するのかを理論的に捉えようとする方法概念でもある。したがって、資本の指揮権やマネジメントも、それが人間の意識的な集合としての団体を前提にする以上、この結合様式が理解されて初めて、その歴史的必然性も、特殊性も鮮明に把捉できることになる。この意味で、マネジメントはアソシエーションの特殊な形態であると定義できるのである。もちろん、人間のアソシエーションを創出する人間的な方法についても、その原理を明らかにすることは可能である。
本書は、以上の問題意識から、経営学に再考をせまっていこうとするものである。もちろん、経営学再考の必要性はますます強まるばかりである。それは、最近の事態を一瞥するだけでも明らかである。
(略)
目 次
第1章 アソシエーションとは
第2章 社会と集団
第3章 アソシエーションと労働と指揮権の歴史的生成
第4章 アソシエーションとアメリカ・マネジメント
第5章 ニックリッシュの組織論
第6章 ボランタリー・アソシエーションの歴史とコーポレート・アメリカ
第7章 マネジメント思想と方法としての全体性論
第8章 経営原論としてのアソシエーション論
第9章 アソシエーション論再論-近代における集団の生成と転回-
第10章 E・デュルケムのアソシエーション論とP・F・ドラッカーの産業社会論
第11章 科学から連帯へ